vol.04
浦田尚希 ✕ 佐々木 旭
URATA Naoki x SASAKI Asahi
since 1997 to 2026
先生と生徒、ともにフロンターレ戦士
1997年にJFLでスタートを切った川崎フロンターレ。
浦田尚希は、大卒ルーキーとして、その年にフロンターレに加入した。
1997年、JFLで勝点1差で3位に終わり、Jリーグ昇格ならず。
1998年、博多の森でのJ1参入決定戦に敗れて、またしても夢破れる。
1999年、3度目の正直で挑んだ初のJ2リーグ。
11月5日、サガン鳥栖戦での勝利で、J1昇格を決めた。
その延長Vゴールを決めたのが、ストライカーの浦田尚希だった。
2000年、初めてJ1リーグを戦うフロンターレは、最下位と苦戦を強いられていた。
1stステージ最終節、1対1で迎えた延長後半に劇的な決勝ゴール(Vゴール)が決まり、眼前でのセレッソ大阪の初優勝を阻んだ。
そのゴールを決めたのも、浦田だった。
2000年1月、時が重なるように誕生した佐々木旭。
ふたりが出会うのは、埼玉平成高校の進学コース(スーパーサッカー)1期生として佐々木が入学した時。
浦田は、現役引退後、コーチ業などを経て教員となり、故郷の埼玉県に戻りサッカー部の監督を務めていた。
そして、佐々木は2022年、浦田がかつてプレーした川崎フロンターレに加入。
2026年の現在、中心選手として、フロンターレを牽引する存在だ。
30周年の節目に、フロンターレにとって特別な“ふたり”による対談が実現した。
※本対談は2026年5月末に実施したものです
再会
佐々木 旭(以下、佐々木)浦田先生、お久しぶりです。
浦田尚希(以下、浦田)久しぶり。旭は大学時代から、高校に顔を出してくれていたよね。
佐々木そうですね。
浦田ボールを寄贈してくれたこともあったし、サッカーゴールも旭がフロンターレに入り、トレーニング補償金をいただいたので、それを活用させてもらったからね。(アマチュア選手が初めてプロクラブと契約する際や21歳以下で移籍する際に、その選手が12歳から21歳までの期間に所属していた育成クラブや学校法人(街クラブや部活含む)が対象となり、トレーニング補償金が支払われる仕組みがある)
おふたりは、佐々木選手の高校時代に教師と生徒、サッカー部の監督と選手の関係であり、ともにフロンターレでプレー経験があるという稀有な関係です。今回、対談することになりいかがですか?
浦田旭も活躍してくれていて本当にうれしいですし、クラブ30周年といっても、こんな機会はなかなかないことですから、僕にとってもありがたい話です。
佐々木僕は、ただただ久しぶりに浦田先生に会えるので、楽しみでした(笑)。
浦田(笑)
改めて、出会いを教えてください。
佐々木僕は、高校進学する際に、静岡学園高校で選手権をめざしたいと思って希望していたのですが、それは叶いませんでした。静学に絶対行きたいと信じて疑っていなかったので、埼玉平成には練習参加だけさせてもらって、面接は受けずに僕、帰っちゃったんですよ。
そしたら、僕が通っていた塾の先生と教頭先生が知り合いだった関係性もあって、後日、改めて面接をしてくれたんです。結果的にはその後、静学は不合格になってしまったので、そういう縁もあって埼玉平成に進学することになりました。
浦田縁があったよね。ちょうどその年に進学コース(スーパーサッカー)が新設された1期生だったしね。
佐々木僕はそういう経緯だったから一般枠で入りました。
浦田スポーツ推薦で入る生徒がほとんどで、旭は、背も小さく、最初は下のカテゴリーからスタートしたけど、三島(伸也=1997年にフロンターレに所属)コーチからも、技術はすごくあるから「あの子は、上げたほうがいい」と進言があって、途中から上のチームでプレーしていたね。
佐々木1年の最初の頃は、同級生に能力が高い選手が多くて、僕は下のカテゴリーでも出られなかったです。高校生になると3年生は身体が大きくて、そのレベルで出られなかったので、1年生のリーグでみんなと試合をやれたのは楽しかったです。それで、ある時、3点取って上にあげてもらって。
浦田身長も、一気に伸びたよね。
佐々木164cmぐらいから10cm以上伸びました。
浦田ポジションは、ずっと中盤だった。
佐々木トップ下とかもやりました。
浦田3年生が引退した後、1、2年生チームで大阪遠征に行った頃には、もうずいぶんプレーができるようになっていたよね。
佐々木そうですね。でも、身長も一気に伸びたので、膝が痛くて全然動けない時期もありました。
浦田そうだったね。
佐々木身体のことも三島コーチを中心にケアをしてくれたのでありがたかったです。
浦田あと、覚えているのは、自分は教員の研修の関係で行けなかったけど、3年生の時に国士舘大学との練習試合で相手がトップチームで対戦してくれて、旭はやれていたと三島コーチから聞いたよ。
佐々木僕も覚えてます。国士舘は、結局10対1ぐらいで負けたんですけど、相手はプロに行く選手もいたので、「やれるな」って感じられました。
浦田埼玉県内の強豪の昌平高校相手でも旭個人は負けてなかった。チームとしては結果がなかなか出なかったので、自信を持ちにくい選手もいたけど、実際、一人ひとりをみると上手い選手もいたと思う。
佐々木僕たちが3年生の時は、まだ西部地区リーグで試合をしていましたからね。
浦田当時、かなりローカルな環境での経験もしたね。
佐々木インターハイは3回戦で昌平高校に0対3で負けて、選手権予選は2回勝ったら、また昌平と対戦できるから頑張ろうというなか、初戦敗退でしたから。
浦田そうだったよね。
高校生活の思い出
部活以外の思い出はありますか?
浦田そういえば、体育祭の実行委員長をやってたよね。
佐々木ハチマキして、選手宣誓とかやりました(笑)。
浦田旭が手を挙げるんだ、とびっくりした。人前に出てしゃべるというタイプでもなかったし。
佐々木誰もいないからやっちゃおうかなって思ったんですかねぇ。
佐々木選手は、“浦田先生は仏のように優しい”と以前に言われてましたが。
浦田でも、修学旅行で…。
佐々木部屋で写真を撮ろうって集まっていて、浦田先生が見回りに来た時に、みんなはばっと隠れたのに、僕は隠れられなくて(笑)、なんでいるんだって。唯一怒られた思い出です(笑)。
浦田そうだね。
佐々木サッカーで怒られたことはなかったです。
浦田なかったね。
(浦田尚希氏提供画像)
佐々木旭のメンタリティ
浦田さんから見た当時の佐々木選手は、どんなキャラクターだったんですか?
浦田後輩からすると、優しかったと思うけど、ちょっと近寄りがたい面もあったんじゃないかなと思います。
佐々木そうでしたね。
浦田サッカーに対しての情熱はすごくあったと思う。(3年生最後の大会だった)選手権予選で敗退した後も、練習に来ていたからね。
佐々木高校時代、練習は一番していた自信はありますね。サッカーが好きでしたし、オフの日でもBチームが練習していたらグラウンドを使えたので端っこでボールを蹴ったりしていました。大学が流経(流通経済大学)という強豪校に決まっていたので、やらなきゃっていう気持ちもあったと思います。
浦田生徒たちには、大学でもサッカーを続けるなら練習参加したらどうかと促してはいましたけど、後輩に気を遣ったり、いろんな理由で来ない選手がほとんどのなか、旭はずっと来ていた。
佐々木はい。
浦田これまで埼玉平成高校からは、旭と長峰(祐斗=鹿児島ユナイテッドFC)の同期ふたりしかプロ選手は輩出していないけど、ポテンシャルを持っていると感じる生徒は何人もいたんだよね。もっと頑張ってやればプロになれる可能性もあるとこちらが感じていても、違う道に進んだり区切りをつける生徒もいた。旭は大学で苦労もしただろうけど、チャンスを掴んで、ぐっと行ったよね。その違いは何なのかと教員として自分も考えることはよくあって、運もあるとは思うけど、それよりもメンタルのところがやっぱり大きいんじゃないかなって思う。それを今日、旭に聞きたかったんだよね。
佐々木うーん、何でしょう…。でも、やりたくない方向に行くっていうのは自分でも意識してきました。正直、高校から大学に行く時も、強豪校から来る選手ばかりだし、実際、入部してからも、埼玉平成ってどこだ、という感じもあって、怖かったんです。でも、行かないとプロにはなれない。フロンターレに入った時も、ボール回しをする時に、上手い人たちの方に入っていきました、怒られながらでもやらないとうまくならないと思ったし、楽な方に逃げないようにしようというのは意識してやってきたのかなと思います。高校生の頃から、それはあったかもしれません。
浦田なりたいという想いが強かったからなのかな。
佐々木高校の時は、ほぼ勘違いでしたけどね。対戦相手にプロ内定が決まっている選手がいて、その人もプロになれるなら自分もなれるかなとか、注目されている選手たちより自分の方がやれるって勘違いしてました。
浦田そういう感覚があったんだね。でもそれは、勘違いじゃない。間違ってないよ。
佐々木さっき話に出た国士舘と試合をした時も「やれるな」って感覚はありました。
浦田やっぱり、あったんだね。
佐々木でも、プロになれるかも、というのはその頃は全然なかったです。意外とやれてる、ぐらいな感じでした。流経の話を浦田先生から聞いた時も、4年生でトップチームに入れればいいかなと思っていました。その時も、他の大学の選択肢もありましたけど、厳しい方でやった方がいいかなと思い決めました。
浦田大学進学の時も、偶然、インターハイで他校の選手を視察に来ていた流経の大平正軌コーチ(当時)の目にとまって、旭ともうひとりにセレクションの話があって、旭は行くとすぐ決断していたね。
佐々木それ(早い決断)で、後悔することもありますけどね(笑)。インターハイの決勝で同級生になる選手たちが出ているのを観て、「こいつらとやるのか」と思ってましたし、流経のCチームと練習試合をやった時も勝てなかったので、正直やれる自信はあんまりなかったです。
浦田そうなんだ。
振り返れば、“おもしろい”サッカー人生
佐々木大学に入ってからも、1年の時に、すごく悩んでいた時期があって、埼玉平成が試合をしているグラウンドに行って、浦田先生と三島コーチに会いにいったことは鮮明に覚えています。
浦田そうだったね。
佐々木1年生が50人ぐらいいて、その中で紅白戦にも入れず端っこでボール拾いをやったり、トップチームのホペイロをやったり、まったく絡めず、サッカー以外のことをいろいろやっていた時期で、さすがにきついなと思っていました。今思うと、親には心配かけたくなかったし、誰かに話を聞いてもらいたかったんでしょうね。浦田先生と三島コーチに話を聞いてもらって、「頑張らないとな」と思って、埼玉から茨城に帰りました。
浦田うん。
佐々木1年生主体で参加していた社会人リーグでも全然出られず、同期が上のチームに上がって人数が足りなくなって、最後の試合に急に出ることになったんです。背番号の上からマネージャーがゼッケンをつけてくれて、途中出場して最後に1点取って、その試合を監督がたまたま見てくれていて、翌年トップチームに入ってました。
浦田大学2年生で浦和レッズとの試合に出た映像を見たら、するする抜いていくシーンがあって、「もう旭は大丈夫だな」って思ったよ。
佐々木天皇杯ですよね。あの時も、初めてサイドバックをやって、それが最後のチャンスという感じだったので、やるしかないなって思ってプレーしたら、うまくいって定着できたんですよね。
浦田そしたら、あれよあれよ、と突き進んでいったね。アミノバイタルカップの決勝を観に行った時の選手紹介で、青森山田高校など名だたる有名校の中、「埼玉平成高校」ってアナウンスがあった時には、本当に鳥肌が立ったことを覚えてる。
佐々木大学3年生の時ですね。
その試合でも佐々木選手はサイドバックとして攻守に渡って活躍し、優勝してますね。
浦田旭のご両親、後輩たちもたくさん応援に来ていたことを覚えているよ。
佐々木本当に振り返るほど、おもしろい人生だなと思います。
浦田そう感じるんだ。
佐々木4年生でやるはずじゃなかったセンターバックをやることになって。当時は、サイドバックとしてフロンターレに入るつもりだったので、「今センターバックをやっている場合じゃないです」と言ったら、監督に怒られました(笑)。今では笑い話ですけど。
浦田(笑)
佐々木振り返れば、振り返るほど、おもしろい人生を送ってるなと思います(笑)。
結果的には、1年間センターバックとして取り組んでMVPを獲り、その経験がフロンターレでも活きていますね。
佐々木「だから言っただろう」って大学に行くと言われます(笑)。
ストライカー・浦田尚希
佐々木選手は、浦田先生がフロンターレの選手だったということは知っていたんですか?
佐々木知ってました。シュートの技術とかも、高校生からすると、大人のパンチ力で衝撃でした。浦田先生が、決勝ゴールを決めた映像も高校時代に見せてもらいました。ダイビングヘッドでしたよね。
浦田観たことあったんだね。
セレッソ大阪の初優勝を阻んだゴールもありました。
浦田あの時、大堀さん(オフィシャルフォトグラファ―)が撮ってくれた写真は、今も自宅で飾っています。
完全アウェイで、ゴールを決めた後、撮影されていた大堀さんと抱き合ったそうですね。
浦田懐かしいですねぇ(笑)。
せっかくなので、1999年11月にJ1昇格を決めた決勝ゴールのシーンを観ましょう。
浦田のVゴールで川崎FのJ1昇格が決定!【マッチアーカイブ1999】Jリーグ公式チャンネル
佐々木20番は、ヤスさん(長橋)ですか?
浦田そうだよ。ヤスは、うまかったなぁ。
佐々木ヤスさんは、この時から今みたいな雰囲気なんですね。建さんもいる。これ、等々力ですか?
浦田そうだよ。
浦田さんは、国士舘大学時代にMVPや得点王に輝き、フロンターレに1997年に加入されてますよね。
浦田僕の場合は、プロを希望していましたけど、当時のスカウトだった大神田さんという方が目をつけてくれなかったら、他に行くところはなかったので、感謝しています。
夢を叶える
フロンターレに佐々木選手が加入することになったことは、どう感じられましたか?
浦田本当に旭と縁があるんだなぁと思います。多くのオファーがあったと言われていたなかで、フロンターレに加入が決まったと知った時は、本当にうれしかった。
そして、このクラブハウスで加入内定の撮影を一緒にしたのが2021年のことですね。
佐々木もうそんなに経つんですね。(写真を見て)細いなぁ、俺(笑)。
浦田ここ(クラブハウス)には、あの時以来に今日来ました。
三島伸也コーチとともに麻生グラウンドにて撮影
ACLE決勝の舞台に立つなど未来に起きたことをどう感じますか?
佐々木自分が出ているなんて、それこそ高校時代の頃からすると、意味がわからないぐらいの話です。
浦田クリスティアーノ ロナウド、フィルミーノ、マネとか対戦したもんね。パリ・サン=ジェルマンと試合をした時はネイマールやメッシとも。
佐々木メッシとやるなんて、高校時代、本当に想像できなかったです(笑)。
浦田そうだよなぁ。
夢を叶える力があったということですね。
浦田だから今、生徒たちに何かあれば、佐々木旭の話をしてます。
佐々木そうなんですか?
浦田旭の高校時代の話や、そこから頑張ってプロになったこと。最初は身長も高くなかったし、技術を磨いて成長したこと。高校自体が強豪校ではなくても、頑張ればこういうところまで行けるんだよということは今の生徒たちの励みになるし、事実の話なので、説得力がある。
佐々木高校時代の僕たちは、ちょっと“調子乗り”みたいな感じでしたよね。走りがめちゃくちゃ厳しいという雰囲気ではなかったのも逆によかったのかなと思います。同期もうまかったし、みんなでのびのびやらせてもらって、技術を磨いたので。その後、大学でフィジカルや守備を身に付けられたという順序が自分には合っていたのかなと思います。もし、高校で強豪校に入っていたら、成長期のタイミングもあって、どんどん埋もれちゃっていたかもしれないし、どうなっていたかわからない。ちゃんと自分に向き合って育ててもらったのはありがたかったなと思います。
受け継がれていくこと
年齢は離れているおふたりですが、時代が変わっても同じようにフロンターレの選手として地域の商店街やブルーサンタの活動をしているという共通体験がありますね。
浦田僕も青いサンタで小児病棟に行ったことは覚えています。当時からそういうことを大事にしようというクラブの雰囲気はありました。それが今でもずっと続いていることはすごいなと思います。
佐々木そうですね。
浦田武蔵小杉駅前で、イベントをやった記憶もあります。
まだ今のように人が集まってなかった時代ですね。
浦田そうですね。ファン感謝デーを麻生グラウンドでやって、焼きそばを作ったりしました。
佐々木麻生でやったんですね。
浦田人工芝のグラウンドもあって、そこでサッカー教室をやったり。
佐々木浦田先生の時は、もう麻生グラウンドで練習していたんですか?
浦田プレハブのクラブハウスができたのが1999年。
佐々木へぇ。
浦田その前は、南多摩で練習をやったり、他の場所でもやっていたんだよ。
佐々木等々力で試合はやっていたんですよね。
浦田改修前の等々力だったから、旭がフロンターレに決まってから久しぶりに行った時に、観客席も増築して大きくなっていたし、照明の感じも青っぽく変わったなぁと思った。等々力はトラックがあるから、実は現役時代は広いと感じて、(ストライカーとして)やりづらさもあったんだよね。
佐々木そうなんですか?
浦田トラックがないスタジアムの方が、やりやすかった。
“アウェイの浦田”と異名があったのは、それが理由ですね。
浦田(笑)だから、僕の写真は白いアウェイユニフォームのものが多いんですよ。
麻生グラウンドとクラブハウスに久しぶりに来て、どう感じましたか?
浦田変わりましたよね。当時は、食堂もなかったし、昼食は外で食べていましたし、昼寝も床で雑魚寝という感じでした(笑)。
佐々木今はマットレスと枕があります。
浦田布団はあったけど、マットレスはなかったかな(笑)。あとは、当時はお風呂が簡易的なものだったかな。
佐々木等々力も、先日、東日本大震災後の試合を取り上げた番組を観たら、ロッカールームが狭くて、今と全然違いました。
浦田等々力のロッカールームも、今は昔と違うんだろうね。
佐々木ところで、ヤスさん(長橋康弘)とか、会えましたか?
浦田会えたよ。タケさん(竹内弘明強化本部長)にクラブハウスを案内してもらって、ヤス、佐原(秀樹)、長谷部(茂利)さん、ホペイロの伊藤さん、(伊藤)宏樹にも会えて懐かしかった。(向島)建さんは、今日は不在だったけど、高校サッカーの現場で会う機会があるし、アカデミーにも同期だった高田(栄二)、久野(智昭)さん、ガミさん(浦上壮史)、黒津(勝)、玉置(晴一)…、当時一緒にプレーしていた人たちがクラブにいるからね。
佐々木シゲさんとも一緒にプレーしていたんですか?
浦田1997年に半年間一緒だったんだよ。長谷部さんは高校サッカー界でヒーローだったから、自分にとっても憧れの人だった。
佐々木じゃあ当時、シゲさんと一緒にやるのはうれしかったですか?
浦田スターだったからね。賢くて、すごく優しかった印象が強いかな。
それでは、最後になりますが、改めてフロンターレの節目にこうして対談してみて、感じたことなどあれば聞かせてください。
浦田僕は、選手としてはもっと長くやりたかったですが、それが叶わず、その後、教員になって指導する立場になり、縁があった旭がこうして第一線で活躍してくれていることはうれしいです。ケガなく、長くやってもらいたいですし、フロンターレやファンから愛される選手になっていると思いますが、これからもそうあってほしいです。
僕が選手で在籍していた当時は、J1昇格、1年でのJ2降格などいろいろなことがクラブにあった時期で、そういう教訓や経験を経て、大事なものは何かを改めて考えて、フロンターレは今日まで歩んできたのではないかと思います。それをずっと続けていってほしいという想いはあります。
佐々木フロンターレに加入が決まった時、浦田先生と三島コーチと同じクラブでプレーできるんだとうれしかった気持ちは今でも覚えています。今日話をさせてもらって、30年前から商店街や地域密着を大事にやってきたから今のフロンターレがあるんだなと感じられました。
ここから先も、自分たちが継続していき、今は結果が出ていないですけど、もう一回強いフロンターレを作っていきたいと思います。あとは、後輩たちに夢を与えられるように、こうなれるんだという姿をみせられるようにもっと頑張っていきたいなと思います。
(一同、拍手)
浦田素晴らしいコメント…。
佐々木僕も、もうプロ5年目になったので(笑)。
profile
佐々木 旭
ささき・あさひ
2000年1月26日、埼玉県川越市出身。
4歳でサッカーを始め、FCジョカーレ、EC JOGADOR、埼玉平成高校を経て流通経済大学へ進学。高校まではトップ下、ボランチの選手だったが、大学2年時にサイドバックで出場した試合でチャンスを掴む。3年時には、曺貴裁氏からも指導を受け、さらに才能を開花させた。4年時にはチーム事情からセンターバックのポジションで奮闘しながら、関東大学リーグ1部でMVPを受賞する。
複数クラブによるオファーがあったなか、川崎フロンターレへの加入を決断。
2023年からはキャプテンでディフェンスリーダーだった谷口彰悟がつけていた「5」を受け継ぐ。困難があっても高いレベルを見据え、自身を成長させようと意欲的に取り組み続けたことで、サイドバックが主戦場でありながら、センターバックもこなすディフェンスリーダーとしてチームを牽引する。
ルーキー時代から取り組んできた「声」を出せるディフェンダーとして、対人、カバーリング能力はもちろん、ビルドアップ、オーバーラップ、そしてミドルシュートで等々力を沸かせている。
profile
浦田尚希
うらた・なおき
1974年6月27日生まれ、埼玉県春日部市出身。
埼玉の強豪・武南高校時代は、2年生で全国高校サッカー選手権ベスト8、3年生でベスト4に進出。国士舘大学では、3年生で関東大学リーグ1部優勝を経験。4年時には、リーグ戦で得点王となり、全日本大学選手権では優勝に貢献し、最優秀選手賞を受賞するなどフォワードとして活躍をする。
1997年、川崎フロンターレに加入。1999年にはJ1昇格を決めるVゴールを記録し、2000年のJ1リーグでもセレッソ大阪のステージ優勝を阻む延長Vゴールを決めるなど、勝負強さを発揮。“アウェイの浦田”という呼び名も生まれた。
フロンターレでは2001年まで5年間在籍し、JFL、J2、J1各リーグを経験。2002年にヴァンフォーレ甲府に移籍し、そのシーズンで現役を引退した。
引退後は、指導者に転身し、コーチ業を経て、学生時代に教員免許を取得していたことから教員の道へ。2013年からは現在の埼玉平成高校に勤務し、サッカー部の監督を務めている。